「短歌の翻訳」 宿谷睦夫 |
「短歌の翻訳」
宿谷睦夫
グローバル時代を迎えて、これまで海外から注目されない分野での日本文化への関心が深まり、その翻訳が急務になってきたのであろうか。長年日本の詩歌の翻訳に携わってきた私のところにも、出版社からの依頼により、「短歌を翻訳するということ」というテーマでの原稿依頼が飛び込んできた。そこで、短歌の翻訳に当り大きく分けて、その形式と内容という二面について触れ、それぞれを詳述してみたい。
「短歌を翻訳するということ」この題名の背後には、「日本の短歌などは外国語には翻訳出来るものではないだろう」という日本語以外の言葉を話す外国人への軽蔑に似た偏見が垣間見られる。命題をされた方は「そんな失礼なつもりは毛頭ありません」というだろうが、「自分達にしか分からない」という気持ちは、じつは身分の上下を問わず、分別のある無しを問わず日本人の気持ちの中に潜んでいる。日本文化は世界に類例の無い特殊なものであって、日本語でだけしか理解し得るものではないと考えている人が少なくないのは事実だ。詩歌の場合、理解までは出来ても、それを詠むことまで出来る人が少ないので、余計にその気持ちは大きくなる。
これまで多くの読者から「短歌や俳句を英詩として翻訳する時、頭韻や脚韻はどうしたらいいのですか」という質問を戴いた。これらにも「日本の詩歌に限っては翻訳は事実上不可能」という固定観念が伺えるだろう。
しかし、英語に関する限り、日本の詩歌と英語のそれとは、内容に関してはさておき、形式においては必ずしも極端には相違していない。このことは、多くの人の研究によって明らかになってきている。
そこでまずは話をすすめるために、ここで用いる「短歌」を定義してみよう。
日本に於ける詩歌の形式は現在では様々なものがある。このうち古来から人々が詠み伝えて来たものを日本人は「和歌」と呼んできた。和歌は大きく三つに分類される。「片歌」と「短歌」と「長歌」である。一組の五・七に七を添えたものが「片歌」であり、二組の五・七に七を添えたものが「短歌」であり、三組以上の五・七に七を添えたものが「長歌」だ。つまり「短歌」足りうる条件としては、五七五七七の三十一文字で詠まれていることが挙げられる。ここではこの形のものを短歌とする。ただし、字余りというのが名歌にもあり、これはその範疇としたい。
短歌の翻訳に当ってはこの厳格なる字数制限に従ったものを英語短歌と呼ぶ。英訳「百人一首」を掲載した詩歌集「短歌の本」の著者、ジェイムズ・カーカップ氏も英語の短歌においては、五七五七七の三十一音節の形式を踏襲している。
日本語の歌には作者が言外に含み言葉を用いている場合が多いので、その部分を英語にすることによって、日本語の歌の三十一文字が英語の三十一音節に翻訳しきれる場合が多い。逆に、三十一音節の英語短歌を日本語にする場合、二首の日本語短歌でないと内容が十分に翻訳出来ないことがある。前出のカーカップ氏はグリム童話の一編を四百に及ぶ連歌集に纏め上げたことがあったが、その日本語訳は、八百首の日本語連歌になった。近年における短歌の日本語訳の草分けの一人であるヘンリー・ローレンス神父(一九〇八―二〇〇四)も「短歌の三十一文字は英語に於いても三十一音節に翻訳しなければならない」と強く主張した。「短歌は内容を人に伝えるものだけではなく、リズムや抑揚を含んだ音楽だからだ」というのがその理由だ。
歌を詠もうとする人の中には、音楽性のことを考慮しても尚且つ、英語では必ずしも日本語の歌の三十一文字に合わせて、三十一音節にする必要は無いではないかと主張する人がいる。彼らの意見は「厳しく制限された音節で歌を詠むよりは自由な音節で歌を詠む方が自分の言いたいことが十分に表現出来るではないか」というものだ。だが、日本語の場合はそのような詩歌のことを「五行詩」と呼んで短歌とは区別する。その点からも、短歌形式とは五七五七七の三十一音節という厳しく制限された音節で歌を詠む形式と考えたい。
もう少し形式の話を続ける。英詩では頭韻や脚韻がしばしば用いられる。では、短歌や俳句を英詩として翻訳する時、これら頭韻や脚韻はどうしたらよいのだろうか。卑近な例をとってみよう。
日本語「類は友を呼ぶ」
英語「Birds of a feather
flock together.」
この諺の中にもきちんとfeatherとtogetherの中にtherという脚韻が組み込まれている。
他にも、この種の問題では、先頭の文字を並べると意味の通る詩歌がある。これを日本では折句、西洋ではacrostic poemと呼ぶ。例えば、紀元前五世紀のギリシャにおける、神の神託を綴った「シビル書」。また、近くでは英国の数学者、ドッジソンが「不思議な国のアリス」をルイス・キャロルのペンネームで書いている。この人も多数の「英文折句」を作った。
彼の実際の詩を見てみよう。次の詩歌は先頭の文字を並べると、著書の題名の中にあるAliceになっている英文折句だ。さらに、一行目と二行目ではjoyとannoyのoyが、三行目と四行目にはfindとmindのindが脚韻を踏でいることが分かる。
(A)nd that in a HOUSE of joy
(L)essons serve but to annoy:
(I)f in any HOUSE you find
(C)hildren of a gentle mind,
(E)ach the others pleasing ever?
このように、西洋の詩には確かに韻を踏んでいるものが多い。だが、一方でこんな詩もある。フランス象徴派の影響を受けたロマン派の詩人・ドーソンErnest Dowson (1867-1900)のものだ。
I have forgot much,/
Cynara! gone with the wind,
Flung roses, roses/
riotously with the throng...
吹く風に/去りしシナラよ!/
思ひ出も/はや薄らぎぬ
人群れに/投げられしバラ/
騒がしく/投げられしバラ……
これは前例のドッジソンに比べて、西洋得意の頭韻も無ければ脚韻も踏んでいない。日本の詩歌と同じ音節で詠まれているものであり、二組の五・七に七が添えられていないだけの詩歌である。これに、七音節の一行が添えられると「英語短歌」になる。
このように、五・七の組み合わせによる詩歌形式は日本独特のものではない。この形式にはフレンチ・アレクサンドリンという名前もある。
ヨーロッパの詩と言うと「韻を踏んで作る」イメージが強いが、日本や中国の詩歌と同じように音節数で詠まれる詩もこのようにある。
ソネット(フランスではソネ)と呼ばれる十四行詩は各行を十音節(フランスでは十二音節)で詠まなければならない。ベルサイユ宮殿のような建築物でも知られているようにヨーロッパの美意識は左右対称にある。しかし、十九世紀になってから化学者のパスツールの提唱によってヨーロッパでも非対称性の美が認知されるようになった。ソネの場合、十二音節を半分に割って六・六で区切る詩歌と日本の詩歌形式と同じように五・七で区切る詩歌も愛好されるようになった。この形式は、短歌と同じである。英語で短歌を詠み、又は翻訳する時、韻を踏んで詠む必要は全く無い。音節で詠むことによって、欧米の詩歌の流儀に背かないですむのだ。
次に、短歌の内容に触れてみたい。日本の大学に於ける国文学の研究対象としての短歌とは、万葉・古今以来の伝統和歌のことであると思う。だが、私は更に、一歩踏み込んで、藤原俊成・定家が打ち立てた伝統和歌を短歌と定義したい。これは、紀貫之が確立した作歌法「古今伝授」に基づいて詠まれた歌のことでもある。
冷泉布美子氏は、機関紙「志くれてい」二十九号の巻頭の随筆で次のように述べている。
鳥の鳴く声または開花の色香などで四季を知り、ああ春だ、夏だと自然の喜びにひたる日々である。晩春の連休のころには庭の一隅の牡丹の十株ほどが見事に花開き、白もよし、ピンク、えんじもまたよしと一人拍手喝さいの気持ち。
大きな花を子細に見れば、薄い花弁の弱々しい幾枚もが雌雄の花蕊(かずい)をつつみ豪華を極める。蜜蜂がその中に入り大いに賞賛する。誠に美しい花王であるが、雨にはもろく名残惜しい。
六月の初めには、姫百合が朝露を分けて深緑の中に錆朱(せいしゅ)を染めて咲き出し、白百合にも優る趣を添えてくれた。花橘(はなたちばな)も馨高く美しい。
夜のしらむころから鳴く鵯(ひよどり)、四十雀(しじゅうから)、雀、鳩、百舌の声を聞き、蕗(ふき)や牡丹の広葉(ひろは)の玉露(たまつゆ)を愛でつつ庭を歩み、毎朝御文庫の小さな窓に頭を垂れ、階上(かいじょう)の神仏に祈りを込める私である。そして、これらは私の歌の心となるのである。
つまり、日常茶飯事に中にも「花鳥風月」と呼ばれる自然を詠むことを作歌の対象にしているわけだ。欧米では「詩人とは預言者である」とまで言われているので、短歌の英訳を考える上では、日常茶飯事の中でも、このように「花鳥風月」と呼ばれる自然を詠んだ歌を対象にするのが妥当であろう。その一例として、冷泉布美子氏が詠んだ次のを紹介したい。
夕暮は
一入香こそ
通ふなり
仄かに白き
庭の梅枝
The white plum blossoms,
which are abloom in my yard
in the gentle breeze,
smell all the more fragrant as
I watch them in the evening.
次に、私が米国詩人のサミュエル・マックニーリー博士に詠んだ歌を紹介する。
Acrostic tanka for Samuel S. Mc Neely
(S)quirrels run about,
(amu)sing me as well as
(e)veryone, who stays
(l)ong in my own residence,
(s)oon hide themselves stealthily.
(M)any beautiful
(c)amellias which are abloom
(ne)ar my cottage where
(el)egant birdsongs are heard
(y)ield pleasure to visitors.
我館/人目慰む/子栗鼠等も
姿伏すとも/声や隠るゝ
小鳥鳴く/我庵近く/咲く椿
訪ぬる人の/心慰む
この歌に対して、博士からは次の返歌を戴いた。
Tiny green finery
In suspended flight
Dipping its molecule of fuel
Then hastily on its way.
晴れやかな/
緑の衣/靡かせて/
しばしとてこそ/
蜜に戯むや
いずれも、自然を詠んだ歌であることが伝わるだろうか。
最後に歌の即興多作の問題に触れて、この小論を閉じたいと思う。
冷泉家における歌人とは、一に熟慮した歌を詠むこと、二に披講が出来ること、三に即興歌が詠めることとされている。「歌は頻繁に詠むものではない」という意見もあるが――それは殆ど、歌に関しては門外漢の人である場合が多いのだが――これは間違いだ。
歌には二種類の側面がある。神への捧物という一面と遊戯性の一面である。後者は「歌蓆」と呼ばれ、連歌や歌合や折句や回歌がそれにあたる。これらは、平安時代から、正式な歌の儀式が終わった後に酒宴の傍ら行われたようだ。室町時代以降、連歌が歌文学の主流になっていくが、この遊戯性の一部が歌人の関心の中心になったからであろう。
歌の即興性は歌人たる重要な側面である。欧米では「詩人とは預言者である」とまで言われていることは先に述べた。歌を詠むことは人間の感性からさらに霊感を磨くことでもある。
信長を初め明智光秀等優れた戦国武将は連歌を詠んでその霊感を磨いたと言われている。西行が歌人であったと同時に北面の武士でもあったことは周知の事実である。彼が携わった戦いは負けたことがなかったという。以仁王の令旨を受けて挙兵した源頼政もやはり優れた歌人であった。即興で歌を詠む訓練が戦場での臨機応変なる機転を磨くことにも繋がっていたのである。
現在は歌を「和歌」と呼んでいるが、古来は「若歌(わかうた)」と呼んでいた。禊が体を清めるのに対して、歌の即興の修練が霊魂を清め若返らせる手段であったからだ。
日本語、英語を問わず、即興で短歌を詠むことは、歌人として必要な能力と言えるだろう。
以上、「短歌を翻訳するということ」という命題に対して、まだまだ詳述すべきことはあるが、紙面の関係上、ここまでに止めたい。
初出(「国文学」(学燈社刊)平成20年5月号<特集>翻訳を越えて116ページ「短歌の翻訳」)
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