坂尾 悌氏よりの翻訳解析記事と宿谷睦夫氏の返書 |
平成22年01月09日 (土)
宿谷睦夫先生
明けましておめでとうございます。 過日、観世のお能にお招きいただいて以来ご無沙汰しておりましたが、温かいお年賀メールを賜りまして、大変恐縮しております。 各方面でご活躍の由、謹んでお慶び申し上げます。
さて、お詠みになった短歌を拝読いたしました。
ひさかたの On the morning of
ひかりさやけき the first day of this new year
はつひをば I myself also
おろがみまつる watch the sun rising calmly
ひむがしのそら above in the eastern sky.
(久方の/光清けき/初日をは/拝み奉る/東の空)
日本語の古語が織りなすデリケートなニュアンスがあまりにも美しいため、それを英訳に移植するのが至難であることを悟られ、ストレートな描写に徹して成功された良い例だと思います。 リズムも自然で、輪郭のはっきりした初日の出の表象が鮮やかに投影されていると感じます。
ただ、ひとつ気になるのは、I myself also watch の部分で、もし私が日本語による元の歌を与えられることなくいきなり英訳版を読んだとしたら、この
also が the sun ではなく I に係っていると解釈してしまうような気がします。 そして、それは、この I が myself によって強調されているからだと思われます。
では、この myself はない方がよいのかというと、それは私には分かりません。 日本語の元歌には myself に相当するような語句は見受けられませんので、これは宿谷先生が何らかの意図をもって加えられたものであるのでしょう。その深遠さは私のレベルを超えています。先生のサイトにお邪魔し、先生の詠まれた歌とご翻訳された二首の短歌を拝読いたしました。
よしのやま When I go up to
ひろきやまべに Mt. Yoshino this morning,
たつくもや the cherry blossoms
しらころもめす are in full bloom as if she
みこのまちます were a lady in white robes.
(吉野山/広き山辺に/立つ雲や/白衣召す/巫女の待ちます)
この英訳も、小気味よいリズムで鮮明なイメージが描かれています。 非の打ち所がないと思いますが、「非の有無」ではなく「欲」の次元で翻訳に挑むならば、英訳も acrostic にしようなどと大それたことを考えたくなってしまうのですが、そんなことができたら、それこそ奇蹟ですよね。
7歳の僕の手元を旅立った凧が飛んでるゴビ砂漠の夜
Does the kite I flew
when I was seven years old
float up in the sky
over the Gobi desert
which I now see in my dream?
「夜」を in my dream と言い換え、また、「体言止め」が英語にはなじまないことを踏まえて大胆にも全体を疑問文で表されたのは、私にはとても思いつかない発想です。 「宿谷マジック」ですかあ?
道徳と呟けばもう寂しくて砂山のトンネルは崩れた
What will I realize
in my future, I wonder?
There must be pathways
that I have built up on shore
but they have been washed away!
この一首はあまりにも元歌が難しくて、もし英訳が与えられなかったら私には解釈不能です。結果的に英訳がこの歌の「解説」になっていると思うのですが、I wonder? を後置するなどして律動を整える工夫をされた結果、独立した tanka としても格調の高いものになっていると思います。
私は「文章の専門家」を自負しておりますが、散文一辺倒なため、韻文への造詣は持ち合わさず、鑑賞力も素人と一線を画しませんので、宿谷先生のお作品とご翻訳についても浅い読みに止まり、紋切り型の評言しか申し上げられなかったことをお許しいただければ幸いです。
実は、私もかつて英語俳句の捻詠にトライしたことがあるのですが、音節の数え方、冠詞の扱い、季語の制約などに通じることに困難を覚え、すっかり敬遠してしまっています。 ところが、以前私が翻訳学校で教えていたときの私の生徒が最近英語の俳句に興味を持ちだしたそうで、私は彼に「英語俳句」についての私の持論を伝えることを約束しているのですが、なかなかそれが果たせず歯がゆい思いをしています。
私は俳句で挫折しましたが、短歌においては、一節一節が長くなる分、更に意味の切れ目とリズムの節目を一致させることが非常に難しいと思います。 日本語と英語、この疎遠な両言語をつなぐ架け橋の創築に励んでいらっしゃる宿谷先生に、心よりご尊敬申し上げます。
また先生と言語論議に花を咲かせる機会に恵まれればこの上なくうれしく存じます。寒い日が続きますが、どうぞご自愛ください。
坂尾 悌
平成22年1月10日 (日)
坂尾 悌様
ご返書有難う御座いました。「文章の専門家」を自負されている坂尾さんが私の翻訳に対して解析を戴き大変光栄に存じます。私の場合、これまで英語を日本語に翻訳する機会は滅多にありませんでした。友人から自分宛てに届いたものを翻訳する程度です。大學までの英語の勉強は英文和訳が主体で、日本語を英語に翻訳する、しかも和文英訳はあっても自分の考えを英語で表現するという英作文の機会は殆どありませんでした。
しかし、私は平成5年パリで「日本祭」が開催された時、京都の冷泉家が七夕の行事を披露するように招待された時、随行してきました。私の役割は、「流れの座」という行事の一員を担うものでした。「流れの座」という儀式は、牽牛・織姫が天の川を挟んで恋の歌を詠み合うのに準えて、男女がペアーになって相聞歌を即興で詠み合うものです。これはフランスで一番の日本文化理解者であったベルナール・フランク博士が企画したものでした。この時、海外でどれだけ日本の文化に対する知識を求めているかに感銘して、私は自分の詠んだ日本の伝統和歌の英訳に取り掛かったのです。そして、バイリンガル雑誌でつい最近までの10年間連載をしてきました。しかし、今迄、自分の翻訳に対して批評をして下さる方がおりませんでしたので、今回は大変嬉しく思いました。散文も「新しい日本人論」という論文の英訳も試みましたが、これも二十数回の連載を重ね、その英訳は難解なものでした。アメリカ人にもエントロピーの解説は、英語は読めても意味を理解出来ない難解なものでしたが、科学に精通したアメリカ人がproofreadingを担当してくれたのでそれも克服出来ました。
さて、下記のご指摘ですが、早速proofreadingを担当した友人に確認致しました。
「I myself also watch の部分で、もし私が日本語による元の歌を与えられることなくいきなり英訳版を読んだとしたら、この also が the sun ではなく I に係っていると解釈してしまうような気がします。 そして、それは、この I が myself によって強調されているからだと思われます。」
お察しの通り、myselfもIを強調し、alsoもI に係っているつもりで、翻訳したのです。しかし、この英文は友人のproofreadingを戴いたものですので、そのネイテイブの友人・ブルース・ワイマン氏の解釈は、私の解釈と同じように、又坂尾さんのご指摘通り、「I myself also watch の部分で、もし私が日本語による元の歌を与えられることなくいきなり英訳版を読んだとしたら、この also
が the sun ではなく I に係っていると解釈」が正しいと言っておりました。世界の人が、慣習として少なくとも日本人は初日を拝む習慣を持っておりますが、それを私もという意味の「も」とmyselfも「私」を強調しているつもりなのですね。散文の観点からは、「myselfはいらない。」と指摘してくれた方もおりました。しかし、実は、日本語でも韻文では必要の無い言葉が豊富に使われるのです。特に、伝統和歌では修辞法としてそれが確立しております。一番のものが、「久方の」「足引きの」「草枕」というような「枕詞」です。私の年賀状の歌の中にも「久方の」が入っておりますが、散文による歌の解釈「東の空に昇って来る光清かな初日を拝(おろが)み見た」の中には「久方の」は省かれております。英語でも、アメリカ文化の日本化として、57577という制限の中で文章を構成していく上で、必要のない言葉を挿入せざるをえないわけです。今は亡き人になってしまいましたが、友人であった英国詩人・ジェイムズ・カーカップ氏やニール・ローレンス神父(英語短歌の創始者)は英語でも57577の音節には音楽性があると強調しておりました。
確かに、欧米人の中でも「英語では必ずしも57577の音節にする必要はないではないか。そのような制限が無い方が自分の言いたいことを十二分に表現できる」という人がいたので、私はカーカップ氏にコメントを求めましたら、「どのような制限があろうとも、自分の言いたいことを十二分に表現できるのがプロの詩人だ」という答えが返ってきました。私は「国文学(学燈社)現在廃刊になってしまいましたが」の昨年(平成21年2009)5月号の「日本語の英訳」という特集号で「短歌の英訳」を担当しました。その時、このカーカップ氏の主張も織り交ぜて小論を述べさせて戴きました。
日本語の元歌には myself に相当するような語句は見受けられませんので、これは宿谷先生が何らかの意図をもって加えられたものであるのでしょう。
そうです。日本語の31文字は英語で31音節にしますと、英語は日本語の2首分の内容を織り込めることになりますので、英語の方が思っている内容を詳しく述べることが出来ることになります。そこで、「日本語の歌には表現されていない内容も、英語では表現している」ことはしばしばです。
「英訳も acrostic にしようなどと大それたことを考えたくなってしまうのですが、そんなことができたら、それこそ奇蹟ですよね。」
それも、一瞬頭に閃いたのですが、直ちに諦めました。それは、英語でも外国人に対しては人名のアルファベットを、各句の先頭に織り込んで英語折句を作っているからです。カーカップ氏はその形式を「短歌ロスチック」“Tankacrostic”と命名して下さり、世界文学に新ジャンルを創設したとして、その創設者の栄誉を私に与えてくれました。イギリスでは「不思議な国のアリス」を書いたルイス・キャロルが一番沢山acrosticを作りましたが、57577の音節で作ったものはありません。他の作家も同様です。そこで、カーカップ氏は私の特殊性を讃えてくれたわけです。原文では下記のように語っております。(カーカップ氏はこの文章の中で折句に対して慇懃無礼な批評もしているわけですが、批評家の中には自分が折句も作れないのに、批評する人がいるが私はその折句を作った上で、宿谷さんの折句批判をしているのだと述べて、自分の名前と私の名前の折句を最後に掲載しております。そこが、カーカップ氏の批評家としても評価すべきところではないでしょうか)前述しましたアメリカの著作家・ボイェ・ラファイエット・デイ・メンテ氏も、さらに感動して、「宿谷さん、外国人に作った折句が100首に達したら、アメリカで私が編集を担当して出版してあげます」と言ってくれました。最初は社交辞令かと思っておりましたが、3年前の6月「英文百人一首折句集」(100 acrostic tanka poems for 100 people)というタイトルで出版してくれました。カーカップ氏はその本の序文にこの“Tankacrostic”のエッセイーを掲載してくれたのです。
現在は外国人はファーストネイムで一首、ファミリーネームで一首が出来ますので、今度は “100 acrostic twin-tanka poems for 100 people”というタイトルの本にしたいと思っております。そして、その原稿は既に出来上がっておりますが、しかも、日英両国語で書きましたが、常に改良しております。オバマ大統領とかマイケル・ジャクソンのように世界的に有名な人がクローズアップされるごとに、内容を入れ替えておりますので、なかなか出版にはこぎつけません。
今後とも、どしどし、私の英訳に対するご意見を戴ければ、互いの勉強になるのではないかと思います。現在は「「黒路よしひとの現代短歌入門」の翻訳にあたって」の本文は既にサイトでご覧いただけますが、ディ・メンテ氏が、これを新聞記事に書いて世界の1000以上の新聞社に発送すると言ってきましたので、私も自分の書いた「翻訳にあたって」は英文にも翻訳しました。これを、ディ・メンテ氏が新聞記事を執筆する情報の一つとして提供しましたら、ディ・メンテ氏自身が添削編集をして下さり、返送してくれました。それで、既に関連記事として、サイトに掲載されておりますのでご覧下さい。1000以上の新聞社となると、日本の新聞もジャパン・タイムズが一番確実性がありますが、朝日・読売・毎日が取り上げると面白いなと思っております。ディ・メンテ氏が世界の1000以上の新聞社にコネクションをもっていることに今回のことで初めて知りました。私の本を出版した時には世界の100のプロバイダーに本を贈ってくれることを、自前でやってくれましたが、今回はそれ以上に彼にとって、たった2首の現代短歌の翻訳でしたが、ニュース性があると見たのでしょうか。坂尾さんも現代短歌の私の翻訳紹介に注目していただいたことに対して、「文章の専門家」を自負されているだけあるなと感銘した次第です。黒路よしひろ氏は現代短歌の歌人であると同時に、万葉・古今・新古今のどの分野の詩歌に対して関心を寄せているだけでなく、短歌の起源・根源や本質に目を向け、自分が歌人として上達を目指すだけでなく、全ての人が歌を愛好することが出来るように工夫を凝らしているのです。つまり、お金を出さなくともその著作を手にし、講師料を支払わなくとも短歌への入門の手引をしてくれるサイトをインターネットに掲載するという画期的なことをしている方であるわけです。私が「翻訳にあたって」でも触れましたが、著作権で問題にはなっておりますが、世界のグーグルが企画していることを、自分の著作で既に実行しているのです。近未来世界で起ってくるであろうことを、既に実行しているのです。そこが、先見性のあるディ・メンテ氏がクローズアップしようとしているところでもあるのです。ディ・メンテ氏は中国の今日を十数年も前に予見しておりました。著作も数冊に及びます。これらは全て中国語に翻訳されておりました。一昨々年、中国政府は世界の三十数社の航空会社の社長クラス120名を招待してシンポジュームを開催しました。その時、基調講演に頼まれたのがディ・メンテ氏でした。中国の将来性を世界の人に知らせる力を一番持っている人と中国政府が認識していたからです。その帰路、日本に立ち寄った時、私と会って、拙著「英文百人一首折句集」(100 acrostic tanka poems for 100 people)の出版を約束をしてくれたという偶然もありました。とにかく、ディ・メンテ氏の黒路への着目点を詳しく知る上でも、その記事が楽しみです。
最後になりましたが、私の翻訳に対するご高評を戴き重ねて御礼申し上げます。
宿谷睦夫拝
By James Kirkup |
“TANKACROSTIC” |
This curious form of verse can be called the playful invention of the Japanese
poet, Mutsuo Shukuya. He usually composes classical- style tanka in the
regulation 5-7-5-7-7 lines of 31 syllables.
Such exercises often refer to the noble tanka form that originated at the Japanese court in the 7th century A.D. and is still practiced by countless enthusiasts, not only in Japan but all over the world, usually in freer forms adapted to the language and native imagery of the country. They are also called waka (wah-kah) or uta (uu-tah). Foreign tanka poets have their own magazines, but can also often be found in publications in Japan.
The acrostic is a poem of which the initial letters of each line have a meaning when read downwards. But there are many variations of this basic form, and there are also prose acrostics. According to some scholars, the acrostic was originally used as an aid to memory in the recitation of sacred texts.
In the Bible, the Old Testament contains recognizable acrostics of an alphabetic type known to scholars as “abecedarian” because the first letters of the lines follow the order of the alphabet. Psalm 119 displays the most elaborate example of this form, employing the 22 letters of the Hebrew alphabet in their correct order.
Another example of this type of acrostic is Chaucer’s poem an A.B.C. Classic authors of the Alexandrian period and Latin authors like Plautus displayed the titles of their plays in their introductory notes using the acrostic form. So did Benjamin Jonson in his drama The Alchemist (1610). The ancient Hebrew 22-line stanzas became known in the West as “Abecedarian Hymns”.
There are many variations of the basic form, some of them very intricate. For example, there is the double acrostic, in which the final letters of the lines form a word or a name. If the letters are in the middle of the lines of a double acrostic, it is called a triple acrostic. A variation in the form of a square is sometimes found:
RING
IDOL
NOSE
GLEN
That is more like a puzzle than a true poem, but its intricate form reminds us that the word “acrostic” was first applied to the obscure prophecies of the Erythraean Sibyl, a legendary prophetess whose words were written on loose leaves whose disorder had to be rearranged in order to discover their hidden meanings.
Those who enjoy such poetic puzzles will be grateful to Mutsuo Shukuya for having invented a new kind of acrostic in the form of the Japanese tanka.
The Japanese are world-famous for their great ingenuity in many forms of creative art and science, so I feel that Mutsuo Shukuya deserves a place among their ranks.
However, from my own point of view, an acrostic tanka is more of an acrostic than a tanka, which, though only of five lines, is still a true poem. By its very nature, an acrostic is too systematic and artificial, and even mechanical to be called a real tanka, which excels in musicality and rhythm that are foreign to the stilted puzzle-play of the acrostic.
Nevertheless, what Mr. Shukuya has created is sometimes original and amusing, and I hope that many people will follow his example and try to write what I must call “tankacrostics” of their own.
It is a good exercise in the construction of a classical tanka, and can sometimes provide pleasant surprises and a certain degree of tolerant amusement. It can be an entertaining word-game for any number of players, so I congratulate its inventor for adding to the gaiety of nations―a quality much lacking in these war-torn times.
It is sometimes said that critics judge but cannot do. Just in case this accusation should be leveled against me for these modestly critical comments, I composed two acrostics on the names of Mutsuo Shukuya and the author of this essay. I am proud to say that I wrote them in ten minutes.
Which inspires me want to challenge other writers in the composition of “tankacrostics.” Can you beat my speed, observing all the syllabic rules? Perhaps we should introduce this kind of contest in the next Olympics in Beijing!
Much of our lives are*
Tormented memories of
Sinister dreamings
Under a demonic moon
Of agonizing absence.
Shadows of the past’s
Unnecessary passions
Kurosawa stars
Yearning for understanding
Among the ruins of life.
And:
Just as a bird flies
Against the winds of winter,
My spirit confronts
Every hardship with firm
Steadfastness of heart and mind.
Killing all fears, and
Irresolutions, and tying
Knots of fidelity with
Unfailing friends, I give thanks
Perpetuating my faith.
*note: As is common in acrostic verse, the second letter of a word may also be used to achieve the correct spelling of the name.
「ジェイムズ・カーカップ氏の随筆“TANKACROSTIC”」邦訳へ
「“TANKACROSTIC”」の邦訳はこちらで読めます。
“TANKACROSTIC”邦訳・翻訳:宿谷睦夫
黒路よしひろの現代短歌入門(目次)へ
"Japanese Modern Tanka for beginners in the world composed by Yoshihiro Kuromichi"
現代歌人・黒路よしひろの作品を解析し、世界への発信の為、歌人・翻訳家の宿谷睦夫氏が英訳
関連記事
「『黒路よしひろの現代短歌入門』の翻訳にあたって」宿谷睦夫へ
Two Modern Japanese Tanka for Beginners in the World
Composed by Tanka Poet
Yoshihiro Kuromichi
Commentary by Mutsuo Shukuya
translator : Mutsuo Shukuya himself
editor : Japanologist Boye Lafayette De Mente
坂尾 悌氏よりの翻訳解析記事と宿谷睦夫氏の返書
『黒路よしひろの現代短歌入門』の宿谷睦夫氏の本文と翻訳について坂尾悌氏が語る
「ジェイムズ・カーカップ氏の随筆“TANKACROSTIC”」の原文並びに邦訳へ
An essay,“TANKACROSTIC”by James Kirkup (both original & translation
into Japanese)
宿谷睦夫著「英文百人一首折句集」(米国・フェニックス社版)への寄稿エッセーより
used as Foreword of a book,“100 Tanka Poems for 100 People”by Mutsuo
Shukuya
published by Phoenix Books/Publishers USA
「短歌の翻訳」宿谷睦夫へ
初出(「国文学」(学燈社刊)平成20年5月号<特集>翻訳を越えて116ページ「短歌の翻訳」)
サミュエル・マックニーリー氏からの書簡へ
宿谷睦夫著「国文学」(学燈社刊)平成20年5月号<特集>「翻訳を越えて」引用文
ボイェ・ラファイエット・デイ・メンテ氏著書の紹介:宿谷睦夫
ボイエ・デイ・メンテ著「日本化するアリメカ」(中経出版刊)の書評:宿谷睦夫へ
Book reviewer by Mutsuo Shukuya on The Japanization of America by Boye
Lafayette De Mente
アメリカの日本研究家・デイ・メンテ氏が日本の美点を徹底分析した著書の書評です。
初出<バイリンガル月刊雑誌「プラザ・プラザ(現在休刊中)」に連載>
デイ・メンテ著『日本の秘密兵器「型」』書評:宿谷睦夫へ
Book reviewer by Muttsuo Shukuya on “Japan’s Secret Weapon: The Kata Factor”
by Boye De Mente
アメリカの日本研究家・デイ・メンテ氏が日本人との付き合い方、又日本及び日本人のネガティブな面を徹底分析した著書の書評です。
初出<バイリンガル月刊雑誌「プラザ・プラザ(現在休刊中)」に連載>
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