短歌入門部屋
短歌入門部屋
http://tanka.ikaduchi.com/
どなたでも短歌を自由にはじめられる初心者用の短歌入門部屋です。
(筆:黒路よしひろ)

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【短歌の基本9】

【掛詞(かけことば)】
掛詞とは、枕詞、序詞とおなじ修辞技法のひとつです。
掛詞について簡単に言うなら「ひとつの言葉にふたつの意味をかける」といったところでしょうか。

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに  (小野小町)

小野小町のこの歌は、掛詞を使った最も有名な歌のひとつです。
この「ながめ」には「長雨」と「眺め」が、また「ふる」には「降る」と「経る」が掛けられています。

この歌を「長雨」「降る」で訳すと…

「美しい花の色はいつの間にか色あせてしまったことよ、いたずらに長雨が降り続いていたうちに」

このような意味になり
「眺め」「経る」で訳すと…

「私の容貌も衰えてしまったことよ、ぼんやりと世を眺めて過ごし物思いしている間に」

このようにひとつの歌で二通りの意味を持っていることになります。
ただ、この歌もそうですが掛詞は明確に二つの意味に分けるのではなく、どちらもが密接にかかわりあって一首の歌としての魅力を高めるようなものでなくては意味がないと思います。

この歌の場合、「美しい花」は「私」を暗に暗示していますし、「長雨」を「眺めている」というイメージすらも読み手に感じさせてくれますね。
つまり掛詞とは、言葉遊びで単純に二つの意味を持たせればいいのではなく、二つの意味がお互いに重なり合って一首の歌としての魅力を引き立たせるところにその真髄があるわけです。
(もちろんひとつの意味の歌として詠んだのに、読み手にまったく別の意味に取られてしまったなどと言うのは掛詞ではありません^^;)

掛詞も序詞などとおなじで、簡単に使いこなすというわけにはいかないと思いますがひとつの伝統ある技法として覚えておき、また使ってみたいものですね。



【本歌取り(ほんかどり)】
本歌取りとは、もとになる本歌がありその歌の一部分を借りてくることによって、本歌のイメージと本歌取りした歌の二つの意味(イメージ)を一首の短歌にこめる技術です。

本歌取りが生まれた背景には、平安時代以降の和歌(短歌)がものごとの「本意」、つまりさまざまの万物が持つ固定した(固定された)「イメージ」を重視したことが深くかかわっています。

たとえば平安和歌の世界においては、「冬」という季節は「春を待ちわびる季節」であり、「恋」は「忍ぶ恋」でなければいけませんでした。

もし歌会などでこれに反して、現代短歌のようにあけっぴろげた恋愛の歌などを詠んだなら、「本意」に反しているとして激しく非難されたのです。
(このようなものごとの「本意(イメージ)」が確定されてきたのは西暦1000年前後のことだと言われています)

これはいつかまた「和歌と短歌について」という項目を設けて書くつもりですが、明治期の歌人たちが和歌の「イメージの固定」によって類似的な歌ばかりになる問題点について真剣に考えるよりもはるか以前に、平安期の人々たちも院政期ごろにはそのことに気づき、また解決方法を模索していたのです。

「イメージの固定」による歌の類似化(誰が詠んでも同じような和歌になる)を解決するためにはどうすればよいか?
普通に考えればイメージを壊した新しいイメージの歌を詠めばいいとなりますが(現実に明治期の歌人たちによって短歌は結局そういう道をたどることになる)、それでは王朝和歌の「雅(みやび)」というもっとも重要なことから離れてしまいます。

そこで本意(イメージ)の固定を逆手にとって、ある歌の一部分を利用することでその歌の「本意(イメージ)」を借り、さらに新しいイメージを二重に詠み込むという「本歌取り」が生まれたのです。

たれかまた花たちばなに思ひ出でんわれも昔の人となりなば  (藤原 俊成)

たとえば藤原俊成のこの歌は…

さつきまつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする  (よみ人しらず)

古今集にあるこの歌の本歌取りです。
「五月を待って咲く花たちばなの香りに昔の人の袖の残り香が思い起こされる」、という本歌のイメージをうまく利用しながら、「もし私自身が昔の人になってしまったら誰が花たちばなの香りで私のことを思い出してくれるだろうか」と人の世の無常をもうまく詠いこんでいるわけです。

ただ、いうまでもなく「本歌取り」とは「本歌」を誰もが知っていることによってはじめて意味を成すものです。
その点、古今和歌集やその後の勅撰和歌集など、お手本となる和歌が決まっていた時代に比べて、あまりにも多くの作品が氾濫している現代では「本歌取り」は非常にやりにくいのが現状だと思います。

そもそも「本意(イメージ)」を無視してしまった現代短歌の世界においては「本歌取り」の本質もまた変化せざるを得ないのですが、それでも本歌と本歌取りしたふたつの歌のイメージを一首で表現できるというのはやはり非常に魅力的だと思います。

現代短歌にも誰もが知っている有名な歌はたくさんありますので(藤原定家は同時代人の歌は本歌取りしてはいけないといっているが)、それらの歌を本歌としてみなさんも一度、現代版本歌取りに挑戦してみてほしいと思います。
もちろん、伝統どおり古典和歌から本歌取りしてもいいですしね。

とはいえ、「本歌取り」は簡単そうに見えて実は非常に難しい技術でもあります。
そこで、藤原定家が「詠歌大概(えいがのたいがい)」という和歌について書き記した書物の中で、「本歌取り」の基本的な方法についてさまざまなアドバイスを残してくれているので次回の「本歌取りと本説・本文について」でさらにくわしく紹介してみたいと思っています。


短歌の基本10 「本歌取りと本説・本文」について
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