「日本とは何か」(書評集)
宿谷睦夫著

E「日本人の美意識」
ドナルド・キーン著


E「日本人の美意識」

 平成四年、私は「日本文化の実像」というテーマで講演会の企画を進めていた。そんな時に、本屋の書棚を眺めていたら、表題の本が目に止まった。
 この本は、著者・ドナルド・キーン氏が十数年来、折々に発表してきた論説文を一冊にまとめたものであった。
 キーン氏は、アメリカの日本文化研究における第一人者であることは勿論のこと、日米両国共に、キーン氏ほど知名度の高い人も他にはいないように思う。幸か不幸か、太平洋戦争のお陰で、キーン氏は日本の言語と文化を若くして研究することとなったそうだ。戦略的な面から、このような立場に置かれた人は多数いたのだが、戦争が終わると、私の畏友の一人であるボイエ・デイ・メンテ氏や「源氏物語」の英訳で有名になったサイデンステッカー氏を除いて、殆どの人が日本研究から身を引いてしまったのだそうである。当時のアメリカでは日本の言語と文化は、研究しても?が上がらないものと思われていたからである。
 キーン氏はそんな利害を度外視して、とにかく日本の言語と文化を研究している内に、それ自体を好きになっていったのだそうである。キーン氏は、「私は今日あらしめているのは太平洋戦争である」とユーモアたっぷりに、時あるごとに語られるようだ。こんな身近なお話を知り得ることが出来たのは、キーン氏と三〇年来の友人であった英文学者であり、評論家の斎藤襄治先生と親しくさせて戴いてからのことであった。
 私がある席で、日本の伝統文化、特に和歌が欧米でも関心が高まっていることの証として、キーン氏のこの著書を取り上げて説明した後のことであった。お隣に座っていらした斎藤先生がキーン氏とのことに話が及び、斎藤先生とキーン氏との対談のテープを聞かせて戴くようになったのである。
 さて、キーン氏の日本人論であるが、それは単純で安易な定義をされるようなことはしてはいないのだが、著書の冒頭では、「日本人の美的趣味が何百年も変わらないとか、また日本人の好みが社会的な階級差や、教育程度の違いよって影響されないということはないが、色々出てくる例外にも拘らず、ある幾つかの美的理想については、どうしても日本特有のものがある」と述べ、欧米には見受けることのないその特質について、幾つか上げている。その第一は、日本人の生活の中で、美的表現など入り込む余地の無いように思われる領域にも、美的配慮が行き届いているという。
 外国から日本を訪れる人は、殆ど例外なく、バスの運転手の頭上に、本物あるいは造花を入れた小さな花入れ、あるいはトイレの壁の花篭から、優雅に垂れている花を見たり、百貨店の店員の芸術的としか言い様の無い包装を見て驚くという。また、日本料理の視覚的効果にも驚かされるという。大昔にまで遡る日本人の美的趣味が、今も日本人の生活の中で重要な役割を果たしているという。日記や随筆を初め、千年前に書かれた物語の描写を読むと、いかに日本人が美に没頭して生きていたかが解るという。
 日本人の美意識を調べようと思えば、この問題を直接取り扱った古典文学によるのもよい。しかし、それだけではなく、その批評や芸術品、それに日本人全体の生活態度自体を通じて見ることが出来るという。キーン氏は日本人の美意識を論じようとする際に、その中心課題として@「暗示、ないし余情」A「歪(いびつ)さ、ないし不規則性」B「簡潔」C「滅び易さ」の四点を上げている。これらが美の源泉になっているというのだ。
 第一番目の「暗示、ないし余情」について、平安中期の歌人・藤原公任(九九六―一〇四一)の歌を上げて説明している。公任は日本語の特色である主語の省略が起こす曖昧さを、歌にも活かしているという。歌のどこにも明示していない雰囲気と情緒を暗示するために、短歌に許された三十一文字を、この歌人は、もっと豊かなものにふくらませているという。この歌の中にある暗示という要素こそ、この歌の美しさの源泉であるという。
 



 キーン氏のご指摘のように、藤原公任に限らず、伝統和歌の特色は「暗示、ないし余情」を大切にしている。伝統和歌の師範家である京都の冷泉家では今でもその作歌法を伝えている。私の冷泉家の門を叩いて二十数年になり、その歌を詠み続けてきた。
 平成三年の秋、台風が連続して到来し、しかも長雨が続いたので、例年になくその風情を味わうことが出来なかったのであるが、ある展覧会に次のような歌を詠んだ。

 降り続く野分も去りて草叢に鳴く虫の音の響く夕暮

 自分の歌で、美の源泉となる「暗示、ないし余情」を説明するのも甚だ僭越ではあるが、キーン氏の説かれるこの技法は、ありふれた作品や詩作の中でも極く当たり前に活用されているという観点から説明させて戴く。
 私はこの歌の中で、「台風が何度もやって来たり、いつもより秋雨が長くて夕方に鳴く涼やかな虫の音を聞けずに、待ちに待っていたが、やっとのことで聞き取れることが出来たのであるが、その音色は事の他素晴らしく、虫の音の美しさに殊更に感動したこと」を詠んだものである。しかし、「虫の音が聞きたくて待ちに待っていたこと」「虫の音の美しさに殊更に感動したこと」は何処にも表現しなかったのである。そんな表現をすれば、白々しいものになり、反って感動の奥床しさを浅いものにしてしまうからである。言葉で表現しなくとも、虫の音を楽しみ情緒を持った多くの読者の共感が得られることを見越していたからである。このような技法は、伝統和歌の作歌法の基本でもある。
美の源泉となる他の三点、「歪(いびつ)さ、ないし不規則性」「簡潔」「滅び易さ」については著書に譲りたい。
 「戦後の日本人は自信喪失の過剰状態にあった。一九九〇年代以降、高度経済の成功で若者の中には日本礼賛派もあるが、これは成金の息子のような傲慢な自信である。慎ましやかな自信は日本の歴史を客観的に公正な目で見る態度から生まれて来る」と考古学者・樋口清之氏は著書「温故知新と一所懸命」(NTT出版刊)の中で言っておられた。自分自身のことは仲間内ではとかく見失いがちである。キーン氏のような優秀な外国人の目を通して、観察・分析された客観性のある論旨を手がかりに、我々日本人は「慎ましやかな自信」を回復して行きたいものである。
 近著には、中村明氏の「技癢の民」(西海出版刊・一五〇〇円)があるが、日本人が「慎ましやかな自信」を回復出来る論拠を、実例を挙げながら論説している。
 キーン氏は日本人論を説く日本人に中で、科学的な証明を根拠にして説いている東京医科歯科大学名誉教授・角田忠信博士を事の外尊敬されておられる。キーン氏は現在日本に在住されているが、まだ在米中の時は日本を訪問すると必ず、角田邸を訪問されたという。その角田博士から、「キーン氏の手紙に『宿谷さんに宜しく』という言葉があったので、報告したい」というお電話を戴いた。そこで、キーン氏にも折句を詠んで差し上げた。
(ドナルド・キーン著・中央公論社刊・一三五〇円)

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