「日本とは何か」(書評集)
宿谷睦夫著

S「日本の秘密兵器『型』」
ボイエ・デイ・メンテ著


S「日本の秘密兵器『型』」

 表記の著書は日本文化をアメリカ人に解かり易く説明し、日本人への理解を深めると同時に、その日本人とどのように付き合っていったらいいかを具体的に解説した本である。これは、著者・デイ・メンテ氏が日本と日本人について書いた三〇冊以上にも及ぶ著書の集大成となるべきものである。そして、前章で紹介した「日本化するアメリカ」とは極めて対称的な著作である。つまり、この「型」という本は、日本の良さをただ単に賞賛するものではなく、表面には現れない否定的な側面を赤裸々に解明しているものである。つまり、礼儀正しさ、親切さ、思いやり、正直さといった賞賛すべき個々の日本人の特性と共に、整然とした町並みや交通機関を始め、工業一般の効率の良さや伝統的な日本文化の所産である陶器や日本庭園に見られる美しさ等に見られる賞賛すべき側面に対して、企業や政治や学問といった世界で、あれほど親切で礼儀正しい日本人が余所者である外国人をほとんど仲間入りさせない排他的側面があるというものである。それは、外国人に限らず、日本人であっても組織に忠誠を誓わない者や秀でた才能の持ち主までもが排斥されてしまうという社会構造を持っているのである。著者は本文で次のように綴っている。
企業の経営者達は最も知性的で最も向上心があり、最も活力がある新入社員を求めているわけではない。実際問題として、このような若者は日本の典型的な企業システムにうまくあてはまらないだろう。経営者がまず欲しがるのは、確固たる意見や野心をもたず、経営者の思い通りの企業戦士に改造できる人間である。つまり、軍隊に似た日本企業のピラミッド型組織に従い、疑問を持たずに規則を守り、生涯を勤労に捧げ、じっくりと出世の階段を昇って行くような人間である。
このことはノーベル賞まで受賞した田中耕一氏を見ても一目瞭然である。彼がノーベル賞を貰った発明に対して会社が発明当時与えた褒賞は一万五千円という金額であったと伝えられている。会社の運命を切り開くような人に対しての待遇がそんな微々たるものでかたずけられているのが日本の社会の現状なのだ。見方を変えれば、日本では有能な人がそういう現状の中でも甘んじて働いているとも言える。デンマークの若者・ピーダーセン氏は、著書「拝啓ニッポン殿」の中で、この特質を日本人の「自制の精神」として、褒め称えてはいる。
著者デイ・メンテ氏は本著「型」の中で、礼儀正しく親切で思いやりのある個々の日本人の特性とは裏腹に、日本人が構成する組織に潜む恐るべき罪業を指摘している。本著は日本と接触しなければならない外国人のみならず、これから日本のあらゆる組織の中で生活を余儀なくさせられる最も知性的で最も向上心があり、最も活力がある若者、組織から理不尽にも仲間はずれにさせられている有能な人達にとっても、組織内での身の処し方を学ぶ上で、必読の書になると思われる。ここでは、本著でデイ・メンテ氏が指摘する顕著な特性をご紹介しながら全体像にせまってまいりたいと思う。
著者・デイ・メンテ氏は、日本人が、個々人は礼儀正しく、親切で、思いやりがあり、正直であるといった優れた側面があるにも拘らず、余所者である外国人をほとんど仲間入りさせない排他的側面があり、それは、外国人に限らず、日本人であっても組織に忠誠を誓わない者や秀でた才能の持ち主までもが排斥されてしまうという社会構造を持っている典型的な事例にノーベル賞まで受賞した田中耕一氏を取り上げたが、もう一人、裁判で二〇〇億円の報酬が認められた中村修二氏の例を挙げてみよう。中村氏は「日本人ノーベル賞候補の最有力者」と言われている方で、カルフォルニア大学サンタバーバラ校の教授をしている。裁判では本人が二〇〇億円の請求しかしていなかったのでそこに落ち着いたわけであるが、実際は六〇〇億円の報酬が受けられるとの判決が出ているのだ。本人は最初は会社と争うつもりはなかったそうだ。ところが、「企業秘密の漏洩がある」と会社から訴えられた為に、訴え返したとのことだ。
経営者が中村氏に取った態度は、デイ・メンテ氏が本著で「経営者がまず欲しがるのは、確固たる意見や野心をもたず、経営者の思い通りの企業戦士に改造できる人間である。」と指摘しているもう一つの典型的な事例であることが分かると思う。しかし、こんな事態が存続するようでは日本の会社に有能な人材が入ってこなくなってしまうのではないかという心配が生じて来る。確かに、現在の日本では、企業も正社員を雇用しなくなったこともあるが、企業に所属したがらないフリーターというアルバイト人口が五〇〇万人にも達していると言われている。その影響もあるのだろうが、国民年金への未加入者が該当者の四〇%にも達してるという国家的大問題にもなってきている。
かかる問題の解決の糸口を探し当てるべく、本著で、著者・デイ・メンテ氏が書き表そうとする日本人の特性をさらに探って行きたいと思う。
日本人の特性として、「日本人は個人的には礼儀正しく、親切で思いやりがあり、正直であるという側面を持っていると同時に、グループとして行動する時、旅行者としての外国人は別として、日本にとけこんで生活しようとする外国人に対しては排他的になる」ということを話して来た。これは外国人だけに向けられるものではなく、日本人であっても組織に忠誠を誓わない者や秀でた才能の持ち主までも排斥しようとすることをノーベル賞を貰った田中耕一氏やノーベル賞の最有力候補に上がっている中村修二氏を例に挙げて論述してきたが、そのような環境の中で一般の日本人はグループの仲間に対してどのような態度をとることが美徳であると考えているかについて考えてみたいと思う。
著者ディ・メンテ氏は著書の中で、「謙虚さ」を上げているのだ。しかも、その「謙虚さ」は他人の嫉妬を避ける為の振る舞いに過ぎないと看破している。
つまり、本文では、「日本人の見せる『謙虚さ』は積極性や有能さや自信、個性といったものを見せることを避ける為の隠れ蓑である」と言っている。一般の日本人は文化として、あるいは誰もが取らなければならない社会習慣として身についている美徳なのであるが、実は神代と言われた昔にその教えが説かれている。古事記以前に書かれたといわれている「ホツマツタヱ」には天照神が岩戸から出てこられた時、「妬み妬まる皆咎ぞ」と人々に諭されたとある。天照神は為政者として申し分の無い政治を行なっていた。しかし、誰からも喜ばれることをしていても、それを妬む者がいたのだ。そこで、国家騒乱の事態が起こって来た。その責任を取って一旦は岩戸に隠れたのだが、多くの民の要請を受けて岩戸から出て来られた。その時、天照神が悟ったことは、「人を妬むこと」だけでなく「人から妬まれること」も咎になることを悟った。この天照神の悟りが日本人の「謙虚さ」の美徳の始まりなのだ。つまり、「謙虚さは人の嫉妬心を避ける方便」なのだ。この美徳の始まりを知らない日本人も現在では数多くいるが、著者デ・メンテ氏は、そんな謂れを知らずして、この謙虚さの本質を看破しているところに感慨を覚える。
「日本人の見せる『謙虚さ』は他人の嫉妬をさける為の方便」と論述したが、これに対して良識的と思われる日本人の中には眉を顰める人もいるのではないだろうか。そういう人の中には本当に謙虚な人がいるからだ。しかし、一般の多くの日本人は社会習慣から控えめであることを要求されるあまり、しばしば、「卑屈」になったり「自己嫌悪」になったりしている場合が多いように思われる。その為であるのだろうか。日本では自殺者が年間3万人にも達している。この原因の一つには『謙虚さ』の本来の目的を履き違えているからではないだろうか。会社倒産の穴埋めに、社長の自殺でも、保険金が下りるという制度が、自殺に拍車をかけているという。それはともあれ、日本人は『謙虚さ』を「卑屈」や「自己嫌悪」と履き違えることなく、心に誇りを持ち、自分の能力を信じて自己研磨に励むべきではないだろうか。
 


 人の嫉妬を避ける方法は、外国でも多々あるものと思われる。それが日本と同じようにある社会習慣になっている例が少なくない。中近東の多くの地方で、赤ちゃんが生まれると顔に墨を塗る習慣があると聴く。「美は悪魔の好物」と見ているというのだ。悪魔に魅入られない為に、可愛いい赤ちゃんの顔に墨を塗って醜くするのだという。そんなこととも知らずにある日本人が「可愛いい赤ちゃんですね」と言ったとたんに「そんなことを言わないで下さい」と言われて赤ちゃんを隠されてしまった経験をした人がいたそうだ。
 ある優秀な中国人留学生に、この謙虚さの話をしたことがあった。すると「そんなのは美徳でも何でもない」と言われてしまった。「人を押しのけてでも前へ出るべきだ」というだ。自分の能力を極限まで引き伸ばそうとする意気込みを感じた。日本人の若者にこんな覇気を持った人が増えてくることを期待したいもだが、一方で著者・ディ・メンテ氏が著書の中で指摘しているように、「謙虚さを人の嫉妬心を避ける方便」として身につけて戴きたいものだ。自分の身の回りの人、例えば職場や近所の人に対して羨ましがられるようなそぶりは見せないことだ。クリントン前アメリカ大統領も、陰で彼を落し入れようとしていた人は彼の地位に対して嫉妬にかられた大学時代の友人だったというからだ。
日本人の「排他性」とそれを回避する方便としての「謙虚さ」を取り上げ、その実例として誰もが新聞で見聞きしているものを取り扱ってきましたが、もっと卑近な職場で起こったことを通じて、日本人の「排他性」について論述して行きたいと思う。次に述べることはある小さな教員の職場で実際に起こったことである。
教員といえば、多少は教養もあり、理性のある人達の集団であると世間一般から考えられていると言ってもいいだろう。しかし、日本ではそのような人達で構成される社会集団でも排他性が顕著だということだ。それはある教員で構成されている労働組合での出来事であった。
三学期も終わりに近づき、次年度の役員選挙が執り行われた。理事者が教員に対して過酷な冷遇を強いることもない比較的裕福な私立学校の職場であるので、役員への立候補もなり手がないという状況が続いていた。
そこへある時、自分達の仲間内だけで役員会を仕切ろうという連中が出てきた。受付をする選挙管理委員もその思惑に加担していたのだろうか。締め切りの期日を盾に、締め切り時間を過ぎた複数の立候補申込者を不受理としたのだ。会員は規約を遵守しなければならない義務があるからだという。
不受理となった立候補者は、選挙管理委員が行った立候補申込者の受理・不受理ともに無効であると抗議した。立候補申込者を不受理とした選挙管理委員は実際にその職務にあたる人間ではなかったことが判明したからだ。規則を盾に取るなら規則に則って、応戦しようというわけである。役員会はその処理として不受理となった者も全て受理しようという決定を出した。しかし、正規の選挙管理委員だった者が、「総会で判断すべき問題だ」という提案をしたため、その決定を再び覆してしまった。総会では、締切の期日を守った立候補申込者のみを受理するとして、それ以降に申し出のあったものは不受理とすべきだという判断が多数をしめる状況となった。
ここに、日本人の排他性が顕著に露呈されていることにお気づきであろうか。つまり、締切の期日を守った立候補申込者のみを受理することに賛成した集団は、自分達に都合のよい規則だけは有効と判断したのだ。つまり、それを受け取った無資格の選挙管理委員の行為は有効としたのに対して、自分に都合の悪い人間の言い分を無効とし、排除に出たということだ。以上のお話は、日本人にとっては仲間に都合のよい規則だけが規則であって、それに不都合な規則は規則として認めないという排他性があるということの証明になる事件だ。これが日本では教養と理性が多少はあると考えられている小集団でも起こりうるという実例である。
日本人が外国人に見せる上辺の親切と優しいもてなしに比べて、自分達だけの世界を築こうとする閉鎖性と排他性があることをいろいろな例をあげて説明してきたが、外来文化の流入に伴なって日本人もそれに対応せざるを得ない状況が益々増えてきている。そのような時代にあって著者・デイ・メンテ氏は直接的な示唆を与えないまでも、日本人自らが考えることの出来る材料を与えてくれているのが本著である。
前世紀までは和の精神ということで、個の意志を軽視してまで、個人が会社や国家という全体に奉仕をさせられてきたことによって、日本が世界の中で優位な地位を築き得て来たが、これからは、これまでの西洋社会の中では常識的であった個人が自分の意見や意志に基づいてあらゆることを決定し、行動する。そして、その結果に責任を持っていかなければ、これからの日本の発展はないということが暗示されている。
デイ・メンテ氏は本著で「欧米人は、個人として責任を引き受け、積極的に勝負を挑む傾向があるが、日本社会は集団内で責任を分散して、失敗した場合の影響を和らげている。そのせいで、日本人は不測の事態や責任を負うことを失敗すること以上に警戒している」と述べている。
つまりは、「日本人は不測の事態を恐れず、自らの意見や判断に基づいて積極的に行動すると共に、その結果に対して責任を負うことも恐れない人材の育成に努めなければ、二十一世紀に於ける日本の発展は望めない」ということを示唆しているということを本著から汲み取らなければならのではないだろうか。
著者・デイ・メンテ氏との交流は今でも、続いている。そして、二〇〇七年の五月には、ジェイムズ・カーカップ氏が、筆者の「短歌ロスティク(英語折句)」に対して、私を世界文学に新しい分野を開拓した創始者として紹介してくれた作品「百人一首英語折句集」の編集をお引き受け下さり、それをアメリカでの出版にご尽力戴いた。
それだけではない、筆者の「日本人論」の翻訳集「日本人とは何か」の編集も、申し出て下さった。
これらは、日本文化の熟達を望んでいる海外の人に、その熟練の技を紹介しようとする彼の熱意であるのだ。
(ボイエ・デイ・メンテ・HBJ出版局・一五〇〇円)

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